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流れ山 flowing mountain レビュー 安河内宏法氏

山を登るように、絵を描くこと

山に登ることと、絵を描くことは似ている。ここで言う絵とは、あらかじめプランが綿密に決められ、そのプランに従って描かれる絵のことではない。支持体に筆を落とし、支持体から離れ自らの描いたイメージを確認し、再び支持体に筆を置く。このようにして画家が行くあてもわからないままに絵を描くとき、その制作プロセスが、先の見えぬままに歩み行くといつしか頂上にたどり着いている登山に似ていると思えるのだ。

登山と絵画制作の相似はしかし、必ずしも厳密なものではない。途中で頂上の位置を把握できないとしても、山の頂上は動かない。絵は、そうではない。画家は自らの筆の動きによって、頂上を作り出す。表現する主体としての画家がいて、その視線の先に完成した作品のイメージがあるという安定した二分法は端から存在しない。混沌とした中から何がしかが次第に練り上げられていくようにして、作品にとっての頂上は生起する。

だが、来田広大の作品を目にするとき、こうした差異を確認してもなお、登山と絵画制作の類縁性に拘りたい誘惑に駆られる。それは、来田が山を描いているという理由のみに拠るのではない。重要なのは、彼の作家としての態度である。たとえば彼には、会津磐梯山や比叡山の頂上から見える周囲360度の風景を描いた絵画作品がある。あるいは、《Boundary》や《On therooftop somewhere》と題された、山や市街地などで来田自身が絵を描く様子を映した映像作品がある。前者の絵画作品で彼は、タイトルで「周囲360度の風景を描いた」と示唆しながらも、風景の全てを描いていない。人は周囲360度の風景を一度に経験することができない。だから彼は、頂上から見える風景を彼の目が捉えられる範囲に限定して描く。一方の映像作品においても、彼は、山や市街地の風景の広大さと彼自身の絵の対比を映し出す。そこで彼は、自らの行為の小ささを隠さない。

来田の態度とはこのようなものである。彼は、山・風景・都市・集合的な記憶といった大きな広がりのある対象を取り上げつつも、それらを自らの認識に収まる範囲まで矮小化することはない。我々が山に登るとき、山を俯瞰できないもの、一歩一歩歩みを進めるほかはないものとして経験するのと同じ仕方で、来田は自らが作家として取り扱う対象と向き合っているのだ。

本展「流れ山:Flowing mountain 来田広大 個展」において、来田のこうした態度は、これまで以上にはっきりと表れることになる。来田は会期中、ギャラリーの床面に山のイメージを描き続ける。イメージが生成消滅していく以上、そして床面にいっぱいに描かれる以上、鑑賞者が来田の描くイメージの全貌を捉えることは、原理的にできない。でも、それでいい。山とは、そのようなものとしてしか経験できないからだ。いや山だけではなく、世界とは本来、そのようなものとしてしか経験できないものなのだ。だから、来田の実践は、ひとつの回答となる。世界がどのようにあるのか、我々は世界をどのように経験しているのかという問いに、来田は山を描くことによって答えているのだ。