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高松コンテンポラリーアート・アニュアルvol.5 見えてる風景/見えない風景 レビュー 毛利直子氏

敷かれた線路の後方、または視線の向こう側

「高松コンテンポラリーアート・アニュアル」は、瀬戸内国際芸術祭開始の前年、2009 年に始まった。これは現代アートへの高まる関心の中、同時代を生きる美術館として、より美術家たちにコミットすることで多様な表現の可能性を探り提示したいと考えてのことだった。

今回のテーマ「見えてる風景/見えない風景」は、3・11 はじめ自然災害やそれに伴う故をめぐる社会的関心の強弱を、伊藤隆介の映像作品により気づかされたことに端を発しているが、実際、出品作家はみな、自然災害の体験やその後の問題に少なからず影響され制作に向かっていた。島を巡りながらアートを体験する瀬戸内国際芸術祭を意識しつつ、美術館という「箱」での本展でも「風景」が大きなファクターとなる。見えている風景はひとつとして同じものはなく、誰もがすべてを見ることは叶わないものの、作家たちの作品や生み出された展示空間により、見えない風景や見えないことにしている風景がどのように立ち上がっているのかを書き記したい。

来田広大―見えない稜線を引く

今回新作を携えてメキシコより一時帰国した来田は、誰よりも早く高松入りした。彼が帰国直前まで思案していた展示プランにより、真っ先に現場で行ったことは、大きな正方形の展示スペースの中に入れ子となる1 対のL 字の仮設壁を制作することだった。その壁は背丈よりも高いが、天井には届かず、空間は上へと開いていた。そして、白く均質に塗装が施された内側の壁面には、会津磐梯山(福島)と4,000mを越すネバド・デ・トルーカ山(メキシコ)山頂から俯瞰された風景画それぞれ6 枚が対照して展示された。また入れ子の空間へ誘う対角線上の両壁面には、福島の雪山とメキシコの小高い山それぞれで「稜線」を引く来田の姿を収めた映像《Boundary》が流された。

登山に親しむ来田は、主に山でのフィールドワークをもとに作品を制作する。自然に浸る喜びを知る来田だが、制作の軸は壮大な景観の先々に見えたり見えなかったりする様々な境界を可視化させることだ。震災、原発事故に遭遇した福島では、見えない放射線量によって以前と変わらず生活する区域と帰還困難区域等を分ける境界が、また滞在先のメキシコでは貧困による格差が加速化し、近づくことさえ憚れる厳しい現実の境界が確かに存在する。来田は、黒板塗料上にチョークという儚い素材を使って描く。開けた視界からのモノトーンの風景画に、私たち各々は、慟哭する海や静寂さを湛えた湖畔、また家々の灯に星が瞬く天空を重ねたりと、一時も同じ時がない自然の姿に記憶のあわいをつなぐのである。

そして、来田が敷いた空間全体を貫く鮮やかなコンセプト。屹立する壁を伝い、一人ずつしか通れない入口から絵画空間へと抜けると、そこは空が間近い山頂だ。つまり来田は、この展示場所を福島とメキシコが近接する仮設の境とし、見えない稜線を白く引いたのだ。

流麻二果の絵画に始まり、来田広大の絵画で終わる本展を巡る旅に、何が見えてきただろうか。ここでいう「風景」は、「私」や「あなた」や「世界」とも置き換えられる。見えてる「私」は本当に私だったのか。見えない「あなた」の輪郭をぼんやりでも知ることとなったのか。見ることがかなわない「世界」に少しは近づけたものか。本展作品により、視線の向こう側にある世界が照射され、各人の世界観が広がったことを願う。